銀河鉄道の夜をエアプする。

銀河鉄道の夜』を読んだ。

 宮沢賢治の不朽の名作として名高い本作品。日本人ならば誰でも題名は知っているであろうくらいの本作品。

 ページ数は80ページほど(青空文庫)と短いが、読んでみての率直な感想。

 正直なところ、しっかりと読みこんだ人はおろか、実は読み終えることができた人さえ意外に少ないのではないかと思う。

 宮沢賢治の独特の世界観と、オノマトペの連続になかなかすんなりとついていくのが難しいと感じる。銀河鉄道に乗る、というロマンティックなイメージだけで語っている、そして『銀河鉄道999』と同一に語っているエアプ勢も多いのではないか。

 それとも僕の読解力が低いのだろうか。その可能性は大いにあるのだけど。

 あらすじを述べる。主要な登場人物は3人だ。まずは、主人公の少年ジョバンニ。学校ではいじめられっ子で母親は病気がちであり、ジョバンニが仕事をして支えている。父は北の海に漁に行ったきり帰ってこない。

 続いて、ジョバンニの親友であるカムパネルラ。いじめられっ子のジョバンニを彼だけはからかったりしない。そしてジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃からの友達で、ジョバンニとカムパネルラは幼なじみと言える。

 そして、ザネリ。ザネリはいじめっ子でクラスでも先頭に立って、いつもジョバンニをからかっている。

 物語はケンタウルスのお祭りの日の学校での授業にはじまる。相変わらず貧乏でザネリ達にからかわれているジョバンニとそれを悲しそうに傍観しているカムパネルラ。貧乏なジョバンニは病気のお母さんを助けるために、帰ってこないお父さんの代わりに昼に夜に働いており、お祭りにいく友達もいない。そんなお祭りの夜にふと気づいたら銀河鉄道に乗って、カムパネルラとともに様々な出会いを通して真実に目覚め生きる覚悟を決めるが、そんな矢先、親友であったカムパネルラは川で溺れたザネリを助けるために死んでしまう、

 とまあこんなあらすじである。

 ここからは、気になった部分をピックアップし勝手に解釈を加えてみる。

 ジョバンニが短い時間ながら仕事の合間にケンタウルス祭を見にいくからかわれたときのジョバンニの心の声。

 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことをいうのだろう。走るときはまるでネズミのようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを言うのはザネリがばかなからだ。」

 ジョバンニはザネリのことや苦しい生活のことを考えるには抵抗がある。振り返るのはつらいことそのためザネリはバカだと嘘の答えをだし考えることを放棄し、一応己の心の中で決着をつけた。

 そのまま続けての描写、

 「ジョバンニはせわしくいろんなことを考えながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通っていきました。(略)」

 せわしくいろんなことを考えるとは、心にふと浮かんでくるままの状態で、ころころ変わる、つまりまだこの段階のジョバンニは何も考えていない。

 考えるとはかむかえる 異物を苦しみながら受け入れそれを同化していくことであり、この段階のジョバンニはそれができておらず真実に至ることはできなかった。

 飾られた街の中、まがいものの中を通ることでしか、その場の気持ちを納めることができなかったジョバンニ、飾ることとなにかに抵抗することは同じである。そして飾るのは、他者に対する猜疑心の表れである。相手に自分のことを本気で思っているかどうかを試す行為である。

 また飾るとは逃げることであり、いざという時に逃げてしまうのはジョバンニには後悔が待っているような状態であるといえる。

 次に、「ふくろうの赤い眼がくるっと動いたり。。。」

 ふくろうは古代ギリシャ時代に知恵のシンボルであったとされる。赤い目とは泣いているということである。では何に対してか。真実に生きられない人間ばかりの今の時代をみて嘆いて泣いていると考えてよいだろう。

 それから、ジョバンニは、「われを忘れて、その(黒い)星座の図に見入る。」

 黒い星座早見とは飾りのないもののことであり、ここでようやく真実の世界に入りつつあることを象徴しているといえる。

 牛乳屋さんに牛乳を取りに行ったさいの牛乳屋さんは、「赤い眼の下をこすりながら、ジョバンニを見下ろして言いました。(中略)その人はもう行ってしまいそうでした。」

 赤い眼が再びでてくる。時を刻んできたものの眼が赤い、すなわち泣いており、そのものがもう行ってしまいそう、とは死んでしまいそうということである。

 これは、真実に至れないまま己の若さを過信して過ごしていた年寄りであり、そのなれの果てである。歳をとることに対し、精神的準備ができていない青春の残骸の象徴であるといえよう。

 精神的準備とはやはり時を刻んでも風化しない、時を超えて説得力のあるもの蓄積する必要があるのだとおもう。

 ほんとうに。。。とはジョバンニが主体的な動機をもったときであり、銀河鉄道に乗ったジョバンニが死ななかった理由である。

 ここまででもまだかなりの冒頭だが、いささか飽きてきたのでまとめてみる。

 僕の考えでは、ジョバンニが入っていた真実の世界に、カムパネルラは入れなかったのだと思う。カムパネルラはあくまでおっかさんの視点で生きていた。溺れたザネリを助けるという、みなが期待する「いいこと」のために死んだ。カムパネルラは自分が本気でやりたいことをやれたのだろうか。否、それをやらずに、やれずに死んだ。

 銀河鉄道に乗り込む人々をみると明らかに死んだものたちであり、銀河鉄道の旅は、明確に死出の旅を象徴しているといえる。

 では、生きていたはずのカムパネルラとジョバンニの二人が銀河鉄道に乗れたのはなぜなのか。

 カムパネルラが乗れたのはもうすでに実体が死んでしまったものだから、すなわちザネリを助けて死んだ本物の幽霊だからである。

 そしてジョバンニが乗れたのは、働いて働いてせわしなくせわしなく考えて、こどもらしい生き方をしていない、生きている幽霊のようなものだからであると考える。

 カムパネルラ、ジョバンニ、いずれにしても生きていても死んでいても死んでいるのと変わらない状態であったことが銀河鉄道に乗れた理由であろう。

 ではどうすれば銀河鉄道に乗らずに生きられるのか。結局は人生に対し、主体的な動機をもつことだろうと思う。そしてそのためには自我が必要である。

 まずは何か一つでも夢中になること、そのことで己の限界や人との関係がわかってくる。まずは模倣してでも形から入り、夢中になって生きることである。

 やや退屈な冒頭から、ラストの怒涛の語りかけを読むことでこんなことを考えてみた。