ああ、人生は過失なり-萩原朔太郎を読む-

 最近、私は学生の頃に学んだノートをよく眺めている。

 今日開いた国語講義の受講ノートには、「ああ、人生は過失なり」という一フレーズが、詩人 萩原朔太郎の詩作の中に存在するかのように、書いている。

 萩原朔太郎の詩作を扱った講義でこう習ったのだろう。

 あれから20数年経った今、改めて調べてみるとこれは嘘、というか、その言い方が悪ければ認識の誤りである可能性が高いことが分かった。

 調べるといっても、萩原朔太郎の全詩集をあたったわけではない。朔太郎先生に敬意を表して、本来ならばそのようにすべきなのだろうが、いかんせん人生は有限である。 

 ここでお世話になるのはいわずとしれたGoogle検索だ。

 さて、Google検索窓に「ああ人生は過失なり」と入力してみると、検索最上位には青空文庫のサイトが表示される。そのページでは、萩原朔太郎の絶版となった詩集 氷島(ひょうとう)を読むことができる。この詩集の中に答えがありそうだ。

 ところで、詩を読む、と表記したが、詩とは読むものなのであろうか。味わう?何にしてもなんだかしっくりこないのだけれど。

 そして、青空文庫が非営利で成り立っていることを恥ずかしながら知らなかった。今知った。私たちがこうやって気軽に古い文献にあたれるのも、こういう志ある方がたの尽力のおかげであったのだ。大変に感謝を申し上げたい。

 お金になるわけではないけれど、意義のある活動に取り組めるような人間に、世の中に有用な人間に私もいつかなりたいと心から思う。

www.aozora.gr.jp

 さて、詩集『氷島』には25篇の詩が掲載されている。サイト内で「ああ人生は過失なり」で検索してみるが、ヒットしない、「ああ」と「人生」の間にスペースや読点を入れても同様であった。この詩集に掲載された詩集には、冒頭のフレーズはないようである。

 「人生は過失なり」という印象的なフレーズを、他の詩に使いまわしている可能性も考えにくい。

 ここで、萩原朔太郎の詩作の中に「ああ人生は過失なり」というフレーズはないもの、と一旦判断する。

 しかし、この詩集『氷島』をざっと眺めても「ああ」、そして「人生は過失なり」という2つの単語、フレーズは朔太郎の詩の世界の全ての根本にあるように思える。

 まず、「人生は過失なり」が登場するのは、『新年』という詩である。これは『氷島』に掲載しているので、一部をここに紹介する。

わが感情は飢ゑて叫び わが生活は荒寥たる山野に住めり。いかんぞ暦数の回帰を知らむ 見よ!人生は過失なり。今日の思惟するものを断絶して 百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。

 新年を迎えたけれど、自分は変わらずにひたすら自らの人生への怒りと後悔に打ち震えているという詩だ。多くの人がポジティブなものと捉えている新年の到来を、対比として冒頭に述べることで怒りと後悔の深さをより際立たせていると感じる。

 この詩の中に、まず「人生は過失なり」のフレーズが登場する。

 使われている単語と組み合わせについて見ていこう。

 「過失」とは、「結果が予見できたにも関わらず注意を怠ったことによる失敗」ということになる。

 朔太郎にとって人生は予見可能であったのだろうか。『氷島』の全作品を通してみても、情欲などの人間の業や、他者との関係性における労苦を感じさせるものが多い。こういったものの存在を認識し、対処が必要であることを認識できていたのかもしれないが、朔太郎の身に起こった幼少期の孤立、成年してから見舞われた離婚や家庭崩壊などを思うに、己の思うようにいかない苦悩の連続であったのだろう。そして過失は、そして取り返しがつかむものとの観念に達したものと想像する。

 更に、断定の助動詞である「なり」がつくことで、現代風に述べるのならば「人生は過失だ」となり、彼にとって「過失こそが人生」と定義されることになるが、「ああ」がつくことでこの定義は数学的な定義とはまた異なる趣を与えることとなる。

 続いて「ああ」である。「ああ」とは何か。「ああ」は「あはれ」に変化し、よく知られるものは、江戸時代の国学者 本居宣長が提唱した「もののあはれ」である。

 「もののあはれ」は平安時代の王朝文学上、重要な文学的、美的理念の一つであり、あはれとは、何か具体的に存在するものではなく、具体的な内容に置き換えられるものではない。対象に対するしみじみとした情趣、無常観的な哀愁のこととされる。

 「人生は過失」であると断じるとともに、感嘆詞である「ああ」をつけることで、無常観、対象に対するある意味で第三者的な目線が感じられる。第三者的な目線ということは、対象はすでに己の中で対象を相対化され、切り離されており、切り離されたものに対する情感といえる。

 詩集『氷島』を読むことで、人生は過失であると達観し、その中でも生き続けた朔太郎の人生への無常を読み手も感じるのだ。