『そっくり人形』を読む

私は今、一冊の大学ノートを目の前に広げている。

 タイトル欄に書かれた文字は「そっくり人形」。

 これは私が高校時代に学んだ国語の講義ノートである。

 『そっくり人形』は、ノーベル文学賞に最も近いとされた文豪、安部公房のエッセイ作品だ。

 安部公房をウェブ検索すると、Wikipediaに次のようにある。

 安部公房は、東京府で生まれ、少年期を満州で過ごす。高校時代にハイデガーリルケに傾倒し、戦後の復興期に様々な芸術運動に積極的に参加。

 ルポルタージュの方法を身につけ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派として海外でも高く評価されている、とのことである。

 とにかく、硬質な文体でとにかく難解な作品を書いている人。大人になってから新潮文庫から出版されている安部公房の文庫はたぶん全て読んだけれど大半わけがわからぬ。

 昔の受験の問題文に使われる代表的な作家だったらしいが、こんなわけわからん文章を書く人が、今の高校生にはどれほど認知されているだろうか。

 さて、20数年前の学生だった頃の講義ノートをもとに、この作品について語ってみたいと思う。なお、このような雑文をものするにあたり、改めて作品を読み返す必要があるかと思い、買おうと思い立ってAmazonで調べてみた。

 『そっくり人形』は、新潮文庫から出版されていた安部公房のエッセイ集『死に急ぐ鯨たち』の中に収録されている。しかし、今や絶版になってしまったようで、文庫本の価格をみると3028円もする。中古の単行本でも1800円だ。希少性が高く、価格が上がりまくっている。

 いつか購入しようと誓い、今回の購入は断念。ノートやネット検索を頼りに記憶の糸をたどっていくとしよう。

 『そっくり人形』は、ある博物館から話が始まる。博物館を訪れた老婦人が、実物の人間がいると思っていたら、実は本物の人間と見紛うほどよくできた彫刻か何かで大層おどろいて、とまぁ、こんな冒頭であったような気がする。そして、とかく芸術とはほど遠い記録装置と捉えられがちな写真というものが単なる記録装置の枠に留まらず、従来の表現技法を超えるような優れたものであることを堂々と述べる、写真家でもあった彼らしい論評である、と記憶している。なにせエアプなので曖昧である。

 ノートを見返すと、まずは、表現技法の歴史をひもとくところから述べられている。

 写実的な技法というものが歴史上恐らくはじめて脚光を浴びたのがヨーロッパにおけるルネッサンスの時代である。ルネッサンスは、日本では文芸復興と訳され、自然と人間の再発見の時代であるとされる。

 自然と人間の「再発見」とはなんだろうか。何を「再発見」したのだろうか。

 更に時代を中世までさかのぼる。中世ヨーロッパはキリスト教、なかんずくローマ・カトリックの教会の影響下にあり、あらゆる絵画などの表現が、神の視点から描かれている。そして神の前で人は皆平等であるとの基本思想のもと、よくみるのっぺりとした宗教画が描かれた時代である。

 一方、ヨーロッパ人の心の源流ともいうべき古代ギリシャでありローマの文化、ギリシャ彫刻に象徴されるような生き生きとした人間らしい表現は忘れ去られてしまっていた。というより、人間らしさを表現する写実はタブーであるとされたのである。

 タブーとされた古代ギリシャの人間らしさの表現への回帰というものがルネッサンスであると理解する。ルネッサンスが「再発見」したものは、「人間」の視点であった。ルネサンスの時代に描かれた絵画は「再発見」した「人間」の視点で描かれたものであり、それゆえ写実的である。この時代、写実的であることそのものが思想を有する表現技法であり、従来の文化に対するカウンターであり、またアバンギャルドでもあったのである。

 絵画をはじめとする芸術はその後もさまざまな潮流を経て変容していくが、写実的であることからもっとも離れた表現の一つが、19世紀にドイツで流行したドイツ表現主義であろう。

 ドイツ表現主義は、客観的な表現を排して内面の主観的な表現、作者や時代の精神を表現することに主眼をおくことを特徴としており、「芸術ハ身体ヲ失ウ」、後のコンセプチュアルアートにも繋がるものである。これらは明らかに写実表現に対するカウンターとして誕生したもののである。

 ドイツ表現主義の代表的な作品に、ロベルト・ヴィーネ監督による映画、『カリガリ博士』がある。ナチスドイツの台頭を予言した作品とされるが、しかし、わけわからんかった。

 時代はまた移り、スーパーリアリズムという技法が提唱される。写真をもとに対象を徹底的に克明に描写するというもので、これはドイツ表現主義的な表現に対するカウンターとして生まれたものである。ただ、写実主義とも距離を置いていたというが、時代を経るごとに表現技法の思想性が失われていく過程のようにも思える。

 スーパーリアリズムと比べて語られるのが写真である。スーパーリアリズムにとって写真は単に対象を切り取ったものであり芸術ではない、というさげすみのようなものがあったが、果たしてそうであろうか。

 スーパーリアリズムは、実体を認識し、人間の眼を通して写実的に描かれる、という表現である。一方、写真は、実体を人間の眼ではなくレンズを通して機械的に捉えることで写実的に描かれる。両者は、構造的には同一であるが、違いは何であろうか。実体を捉えるものが人間か、レンズ(機械)かというところであり、限界ある人間が自立的に焦点を定めるがゆえに表現されるものは不確かで、焦点を定めたもの以外は表現されず、結果として真実から遠ざかるという結果をもたらすことになる。

 一方写真は、レンズを通して対象を捉えることで写実的に表現をする。フレーム内の表されるものは、撮影者の意図したもの、意図を超えたものが共存することになる。情報の質と量において人間の限界を超えたものを得られるというものである。

 とかく、写真というものは現実をただ写し取るだけのいわゆる「そっくり人形」という扱いを受けがちではあるが、そうではない。むしろ人間の意図を超えた対象を捉えられるという点で表現として優れているものであり、不完全に、恣意的に情報を捉えるスーパーリアリズムこそが「そっくり人形」として揶揄されるべきものであると述べている。

 そっくり人形は当時比較的新しい表現であった写真が有する機能を解き明かし、既存の表現技法に関する優位性を主張している。

 主題ではないが、単純に表現技法の話としてではなく、古い何かに対して、新しく変えるためのアクションを起こすときに単に何かを変えるために、変えるということになっていないかと自問を促す作品であるとも思った。