暗号通貨イーサリアムのブロックチェーンシステムが変わる?

 ビットコインをはじめとする暗号通貨のマイニングによる膨大なエネルギー消費量の環境負荷が問題になっているそうだ。

 

 マイニングとは何か。

 暗号通貨は、ネットワーク内の取引を検証するために、大量のコンピュータを用いて競いあって、検証のための計算(数学的なパズルを解く)を行う。

 そして、最も早く計算を完了させたものがブロックと呼ばれる台帳に取引を記録し、その報酬として暗号通貨を受け取れる。

 これがよく聞くブロックチェーン技術であり、この、報酬を得るために計算を行う行為をマイニングといい、この行為を行うものをマイナーという。

 マイナーが、マイニングを成功させるためには、他のマイナー(の持つコンピュータ)を計算能力で上回る必要があり、必然的にマシンパワーを競い合うことになり、それに合わせてエネルギー消費量も高まり続けているというわけである。 

 

 では、どの程度のエネルギーを消費しているのか。

 電力消費量をみてみる。ケンブリッジ大学ジャッジ・ビジネス・スクール(経営大学院)が発表している、『ビットコイン電力消費指数』によれば、暗号通貨の一種であるビットコインのマイニングによる年間電力使用量は95.8TWhで、これはカザフスタンやフィリピンの全体の使用量を上回るほどである。

 そして、ビットコインに次ぐイーサリアムである。イーサリアムのマイニングによる年間電力使用量は、ビットコインの1/3程度であると考えられているが、これでもニュージランドの使用量と同等レベルである。

 いずれにしても暗号通貨のマイニングにはとてつもないエネルギーを消費していることがわかる。

 

 今日は、イーサリウムにおけるエネルギー消費量削減の取り組みについて述べてみたい。

 マイニングに膨大なエネルギーを消費する理由は、前に述べたようにセキュリティを担保するためのブロックチェーン技術の性質上、マシンパワーを競い合うようになる仕掛けが内包されていることにあった。

 実は、ブロックチェーン技術にも色々な種類がある。ビットコインイーサリアムなど、多くの暗号資産のマイニングにおける検証方式はPoW(プルーフ・オブ・ワーク)型である。

 そして、イーサリアムはエネルギー消費量を削減するためにPoW型を脱却し、PoS(プルーフ・オブ・ステーク)型へのシステム移行(これをマージという)を進めており、このマージにより、イーサリアムのエネルギー消費量は99.5%削減可能な見込みである。

 PoW型からのシステム移行で、PoS型のブロックチェーンであるビーコンチェーンが利用される。

 PoW型、PoS型のいずれもブロックチェーンの種類である。暗号通貨におけるブロックチェーンとは、身近な例でいえばコンピュータにおけるOSのようなものと考えればよい。

 

 続いて、PoS型とはどんなものか。この仕組みを述べていく。

 従来のPoW型はマイナーが一斉に取引の検証のための計算に参加し、最も早く正解にたどりついたものが報酬を受け取るというものであった。

 

 一方で、PoS型ではどうなのか、みてみよう。

 PoS型におけるマイナー希望者は、まず一定額の暗号資産(今回の場合はイーサリアム)をネットワークに投じる(預けるといった方がよいかもしれない)。

 このネットワークに預けた暗号資産をステークという。ステークはマイニングに参加するための参加費のようなものであり、このアクションがマイナーになるための第一歩となる。

 なお、このステークは最低でも32イーサ必要であり、日本円にして約650万円近い水準である。

 こうして、ステークした人の中から、システム側がランダムにブロックを検証するためのマイナーを選ぶ。

 ここで、ステークしている量が多いほど検証の役割を得やすくなる。つまりマイナーとして選ばれる可能性が高い。

 選ばれたマイナーは、ブロックを検証した対価として報酬と手数料を暗号資産で受け取ることができる。

 PoW型がマイナーが一斉に検証速度を競い合うのに対し、PoS型は検証する人がシステム側からランダムに選ばれ、ラップトップパソコンでも参加可能である。

 したがってPoW型のような計算能力アップを狙うエネルギー消費量の増大を抑制できるという、これがPoS型の概要であり、エネルギー使用量を抑制できる仕組みである。

 

 では、PoS型ではどのようにセキュリティを担保するのか。当然エネルギー消費量を抑えるだけでなくセキュリティを担保する必要もある。改ざんなどを防止する仕組みはどんなものなのか。

 PoS型において、マイナーに選ばれた人が改ざんなどの不正をおかした場合、その人が預けたステークの一部あるいは全部は破壊(スラッシュ)される。

 そして、ブロックの検証が杜撰なものであれば更に罰金が課される可能性もある。

 マイニングへの参加費用を払い検証に参加して、報酬と手数料を受け取る。不正をおかしたら参加費用を没収された上に、罰金を課せられる可能性もある。

 まずこの罰則が抑止力になっている。

 

 更に、改ざんを試みる側の立場に立ってみる。

 改ざんするにはまず検証の役割を得る必要がある。かなりの高確率でその役割を得るには、全ステーク量の1/2以上はステークする必要があるだろう。

 イーサリアムにおいて全ステーク量の1/2をステークするためのコストは日本円にして3兆円をこえる。PoW型の場合には改ざんを行うために必要なマシンパワーを得るためのコストは約6900億円ほどだから、PoS型のシステムのもと改ざんを行うことは、PoW型より多くのコスト面でのリスクも抱えることになる。

 このシステム移行はよほどのことがない限り実行されるであろうから、その後の予想について述べてみたい。

 

 このPoS型へのマージによって、大規模な能力を有するコンピュータや電力契約が役立たずになるため既存のマイナーは大きなダメージを受けるとされている。

 既存のマイナーはマイナーはマージ以前のようにマイニングを続けるためにPoW型のイーサリアムへのフォークを考えるだろう。

 イーサリアムのエネルギー消費量は抑制されるだろうが、ビットコインはどうだろうか。PoW型によって長年セキュリティを守ってきた実績を考えれば、この流れに追随する可能性は低いだろう。

僕が投資信託を購入するまで

 山崎元さんと大橋弘祐さんの著書『難しいことはわかりませんが、お金のふやしかたを教えてください!』を読んで株式投資はじめた(投資信託を購入した)ことを前に書いた。

 

 この本では、「当面の生活資金」、「安全資産」、そして「リスク運用資産」の配分を決め、「リスク運用資産」には外国株式と国内株式の投資信託を半々で購入することをアドバイスしている。

 

 僕は「安全資産」である日本国債は買わずに、「当面の生活資金」と「リスク運用資産」で運用することにし、早速、全資産の65%に達する約700万円を一気に「リスク運用資産」に回すことにしたのである。ほぼ名前を知ったばかりの金融商品にいきなり全資産の65%とは尋常ならざる話で、初心者でなければできない暴挙であると自分でも思う。

 

 このような暴挙と思える行動に出た(出られた)理由を考えてみると、以下の2点に集約できるだろう。

 

  • 中途半端な状態に気持ち悪さを感じる気質

 僕はモノを所有することがあまり好きではない。今でいう「ミニマリスト」の気質があると思う。部屋の中や、机の上はかなりきれいにしている方だと思う。ほとんどモノがない。

 ただ、ミニマリストと違うのは、生活が便利になるならば、また洗練された空間になるのならばモノはあってもかまわない、という考えを持っていることである。

 (それにしてもYoutubeを観ると様々なミニマリストが情報発信をしている。中には洗濯機を捨てて手洗いで洗濯している、などという強者もいる。しかし、手洗いによってどれだけの時間を失うのか、これはバカである。)

 話がそれたが、資産についても洗練された状態を、そう自分があるべきと思う場所にあるべき分の資産が配分されている状態の作りたさ、の圧力が非常に強いと感じる。

 株式投資によってゆくゆく資産を拡大していこうとするならば、まとまった額を投資に回す必要があるのは当然のことで、それを「当面の生活資金」という形で寝かせておくのははっきりいうと無意味だ、という思考のプロセスを経ることで資産の65%を一気につっこむという行動に至ったのである。

 これはミニマリスト気質の特有の感情を抑えられなかったということであり、業のようなものである。投資家として褒められた行動ではないのだろう。

 その後、幸いにして株価は2022年現在まで比較的順調に推移していったのだから、まったく株式市場の状況に助けられたということだ。

 

  • 長期保有の利点に関する理解 

 自らデータを分析したわけではないけれど、全世界に広く分散が効いたインデックスファンドを15年保有すれば元本割れはほぼないと言われている。これはどういうことだろうか。

 山崎さんの本では、おすすめの投資信託によって平均で5%のリターンは期待できると書いている。年5%ということは、72の法則によると元本が2倍になるのは72➗5=14.4年。約15年で元本が2倍になるということだ。

 一方、市場の値動きはどうだろうか。100年に1度の暴落といわれる「リーマンショック」の場合を考えてみよう。

 リーマンショックの時に世界同時株安が起こったが、その際の日経平均株価の最大の下げ幅は半年で42%だったが、その後、持ち直したという。100年に1度クラスの大暴落における下げ幅でも50%いかないくらい、ということである。

 

 つまり、15年保有すれば、インデックスファンドの元本は2倍になり、その後暴落しても1/2になることはまずない。だから元本割れはほぼない、と解釈している。

 

 本を読み、こう解釈することでインデックスファンドのメリット自分のなかで腹落ちした。そして15年の保有は自分には可能であると判断したのである。

 半分になったらさすがに心穏やかではないだろうが、元本割れがないのならば、そして当面の生活に問題が生じないのならばやらない理由はないだろう。

 更に付け加えるなら老後までに15年以上の猶予があるという僕個人の状況も判断材料であることを申し添えておく。

 

 最後に僕が購入した『ニッセイ外国株式インデックスファンド』と『上場インデックスファンドTOPIX』の商品概要を述べておく。この投資信託を勢いで購入した僕の、今に至る資産運用の経過については改めて述べてみたい。

  

ニッセイ外国株式インデックスファンド

アメリカ、イギリス、フランスなど、日本を除く先進国23カ国の株式を指標化した数字「MSCIコクサイインデックス(※)」に連動したインデックスファンド。ニッセイアセットマネジメントが運営する。

 

特徴

 

 ※モルガン・スタンレー・キャピタル・インターナショナル社が運営する指標。公的年金をはじめとして日本の機関投資家が外国株式を運用する際の運用目標として使われている。

 

上場インデックスファンドTOPIX

 日興アセットマネジメントが運営する、TOPIX(※)に連動したインデックスファンド。これを購入することによって、トヨタソフトバンクなど東証一部(現在のプライムに相当)に上場している全ての企業の株式を少しずつ持つことになる。

 

特徴

  • ETF」であり、上場株式と同じように購入できるので売買手数料が安い。
  • 運用管理手数料(ランニングコスト)がかなり安い(年率0.1%未満)
  • 運用資金料と取引量が多く安定している。

 

 ※東証一部に上場している企業の株価の指標。東京証券取引所第一部に上場している 銘柄すべての合計時価総額を、基準時点(1968年1月4日)の時価総額で割ることによって計算する。

 

 上に挙げたインデックスファンドでかなりの分散が効いていることは間違いないが、新興国が投資先として抜けており、これが弱点というか気になるところではある。

 と思ったら、山崎さんの最近の著書『ほったらかし投資術 全面改訂版』では先進国、日本、のみならず新興国にも分散した『eMaxis slim全世界株式(オールカントリー)』をこれ一本でよいとおすすめされている。次々によい商品が出てきているということなのだろう。

 僕は後にこの商品も購入した。

株式投資をはじめた時のこと

 株式投資を始めてかれこれ6年になることと、はじめるまでのきっかけを以前に書いた。

 きっかけは、務めている会社で確定拠出年金制度が開始されたことと、コンビニで偶然みかけた経済評論家の山崎元さん(と大橋弘祐さん)の著書、『難しいことはわかりませんが、お金のふやしかたを教えてください!』を読んだことだ。

 43歳の僕が投資を始めた6年前は37歳。当時はアベノミクスで、日経平均株価をはじめ株式市場は比較的活況で株価は上昇トレンドに乗っていたと思うけれど、今ほど一般の人の投資熱が高まっていたわけではなかったと記憶する。

 前にも述べたけれども、当時は仮想通貨という言葉すらまだ出始め(?)くらいなもので、当然市民権を得ているわけでもなし(まぁ、今でもよく分からん怪しいものと思っている人は多いのだろうな、、、俺もそんなに詳しいわけではないけど)。

 僕自身のことを振り返っても、年収が700万くらいはあったし、手前味噌だけれど特に投資をせずとも金融資産が現預金で1000万円ちょっとはあったと思うから、特段に日々の暮らしに困ることもなく、結構趣味にもお金を使えて、もちろん将来のお金の心配なども全くしていなかった。

 それに当時は結婚していて、奥さんは僕よりも稼ぎが多かったし、奥さん名義の持ち家もあったというわけで。そして子供もいないという、お気楽なDINKSとして、基本的には人生イージーモードと、余裕をかましまくっていたわけである。

(結局、奥さんとはいろいろあって3年後くらいに離婚することになってしまうのだが。。。)

 当然、株式投資による資産運用の必要性などは感じてはいなかったのであるし、また、その知識もなかったものである。

 ただ、当時、資産運用とは呼べないようなものだけど、銀行の定期預金に毎月5万円くらいの積立はしており、それを15年くらいは続けていたはずである。結局このお金が投資の種銭として大いに活用されることになったわけであるし、今思えばこの習慣はめっちゃ重要であったと思う。

 現在、政府は一億総投資家として貯蓄から投資への流れを盛んに推進しようとしているし(その割に金融所得課税の増税の話題がくすぶっているなどスタンスがよくわからないが、岸田総理は結構、この分野は苦手なのかもしれない)、ひとたびSNSをみれば、インフルエンサー達はかしましい。「少子高齢化が進み、めぼしい成長産業もなく、給料の上昇も見込めない日本社会において、更に終身雇用の崩壊が進むなかを生き抜くのに、貯金はオワコンで投資は必須だ。」などど盛んに煽っている。それはそうなのだろう。本当だろう。

 しかし、僕自身の当時の肌感から振り返っても一ヶ月に3~5万円も積立預金ができる生活様式を確立している人は、仮に投資をしなくても、将来にわたって生活が破綻することはないのではないかな、と感じる。どうしてもリスク資産にお金をつぎ込むことが生理的に無理という人だっているのだから。

 そんなわけで冒頭に述べた著書『難しいことはわかりませんが、お金のふやしかたを教えてください!』に戻る。同著の少し詳しい要約はまた別の機会に書きたいのだが、この本では結局こういうことを言っている。

  • お金を運用しようと思ったら銀行には近づかない。
  • ネット証券を活用する。
  • 資産運用は個人向け国債と株式の投資信託だけやる。
  • 投資信託は手数料の安いインデックスファンドを選ぶ。
  • おすすめの投資信託は、『ニッセイ外国株式インデックスファンド(海外株式)』と『上場インデックスファンドTOPIX(国内株式)』
  • アクティブファンドの成績の平均はインデックスファンドを上回ったことはほとんどない。
  • NISAなど税制面でお得な制度を活用する。
  • 持っている資産を「当面の生活資金」と「安全運用資産」と「リスク運用資産」の3つに分ける。
  • 「リスク運用資産」にあてる額は最悪1/3になってもいい金額から逆算する。
  • 1/3になる確率は約2.3%。2.3%がいい方に起これば43%アップ。平均でプラス5%を目指せる。
  • 毎月少しずつ買わずに一気に買うのが合理的。
  • 国内と海外のインデックスファンドを半々ずつ買う。
  • 確定拠出年金も上と同じように割り当てる。

 これをふまえて僕も個人で投資をしてみることにした。

 本を読んだとて、口座開設の仕方も分からないというので、この本で取り上げられているSBI証券に口座を開き、おすすめのファンドを購入してみたのである。

 ちなみに『ニッセイ外国株式インデックスファンド』に約380万円と、『上場インデックスファンドTOPIX』約320万円を購入した。

 残りの現金は約380万円であったから、約65%を「リスク運用資産」に使ったことになる。

 この本には、「投資金額は、最悪1/3になってもいい金額からの逆算によって決めるべき」、とあり、この考えに照らし合わせると、僕の場合は約460万円が目減りしても耐えられるという想定となる。

 未経験の僕が約460万円が減っても平気であるなどとは、自信をもっていえるはずもなく、投資金額を決める際には結構悩んだのだが、結局決め手となったのは、やはり本で述べられている、「毎月少しずつ買うのではなく、一気に買って理想と考える状態を作り出すべき」という考えであり、この考えにウェイトを置いて判断したということである。

 そしてしばらく様子をみて、株価の値動きに耐えられそうだな、と思ったところで更に投資金額を積み増ししていき、今に至る、という感じである。

 ここで大きな暴落を食らったら、いくら頭でわかっていても耐えられたかどうか自信はなく、その面では、当時の株式市場が上昇トレンドにあったことも幸いしたと思う。人が株式投資に持つイメージはその人が株式投資を始めた時の相場の状況にも大きく左右されると思う。

 この本には僕が購入した2種類のファンドの概要説明も書いてあるのだが、当時はこれだけの金額を購入していながらも、実のところよくわかっていなかった。中身に対して少し意識的に学んだりし始めたのは、購入してから1年くらいは経ったころだろうか。他にも色んな商品があるのだな、と理解し自分が買った商品を相対的にみることができはじめたころからである。

 やってみて(自分のお金を市場にさらしてみて)いるからこそ、自然に学ぶモチベーションが湧いてくる、というのは何ごとにおいても往々にしてあることで、だから行動するのは大事だし、やってみないと分からないことはたくさんあるよ、ということだと思う、ありきたりだけれど。

 幸運にも支えられて今なお、株式投資を続けてこられているが、この本に関する雑感や、ここまでに至る経緯をまた改めて述べたいと思う。

株式投資のトビラをあけて

株式投資をはじめてかれこれ6年ちょっとになるだろうか、現在43歳。

 僕の流派は、長期投資、分散、積立を前提とした王道のインデックス投資派だから、はじめて6年というのはまだまだ始めたばかりというところだ。やはり15年、いやせめて10年くらいは続けないとなかなか年季が入ってきたとはいえないだろう、界隈ででかい顔もできないだろう(別にする気もないけど)と思いながら続けている。

 まだやめずに続けているいうことは、少なからず今のところ期待とメリットを感じられているからであり、これまでの、別に面白くもない、そして何かを成し遂げた人生というわけでもないけれど、これぐらいはなんとか続けていきたいものである。

 そもそも僕が株式投資というものを始めたきっかけは、勤めている会社で確定拠出年金制度が開始されるということにさかのぼる。ある日会社の大食堂に集められ、メインバンクであるみずほ銀行が開催する説明会を受けたのである。しかし、みずほて。。。

 銘柄選定方法などはわからないのと、「株はギャンブル」の猜疑心が強かったため(今思えば根拠なき全く無知ゆえだったといえるのだけれど)、そして制度の利用を強制されることへの反発もあって、それゆえ、とりあえず、全て銀行の定期預金を選ぼうとしたのだが(ちなみに、全て銀行の定期預金を選択すると元本割れはないのだが、これまでの確定給付年金の受給額に対し、制度上明らかに負け、である。。。)、ちょっとした気の迷いで思い直し(決して何かひらめきがあったわけではない)それでも中身を理解せず、適当な銘柄をいくつか選んではじめてみたというのが最初である。周りの人間をみても似たような感じだったと思う。

 その後の値動きなども全く気にすることはなかった。その時に何の銘柄を選んでいたかも今やすっかり忘れてしまった。

 そんなある日、なにげなく立ち寄ったコンビニの書籍コーナーで目に止まったのが、インデックス投資界隈ではいわば教祖的な存在でもある(ご本人にそのつもりはまったくないだろうが)山崎元さんと、大橋弘祐さんの共著、『難しいことはわかりませんが、お金のふやしかたを教えてください!』である。この本には大いに影響を受けることになったのである。

 あえて取り上げる恥ずかしいくらいに有名になった本だし、ここまでストレートな欲求をタイトルにした本を、カッコつけの(恥ずかしがり屋の)僕が取り上げるのもだいぶ恥ずかしいのだけど、まあ、いい。過去の自分を認め、受け入れられない生き方の方がもっとかっこ悪く、恥ずかしいことだろうから。変わるのだ、いつからでも。今日からでも。

 この本を手にとったきっかけを思い返してみるに、当時ローンチしてそれほど間もなかったであろう、ニュースピックスの僕がユーザであったことが挙げられると思う。

 ニュースピックスは経済に特化したニュースサイト、メディアで、ニュースを有識者の解説、コメントとともに読めるのが特徴のちょっと「意識高い」メディアである。ちょっと高級なヤフコメと揶揄されることもあるけれど、

 先に冒頭にあげたニュースを解説、コメントする有識者である、プロピッカーを務めておられた一人が山崎元さんである。

 山崎さんのコメントは、論理的で的確なのは言うまでもなく、かつ語る他者の視座に対する想像力もありながら、そこに寄り過ぎず一貫して俯瞰した立場からぶれずにいるという立ち位置の安定感と、ちょっと皮肉とユーモアもある。

 落語などでなんとなくおかしみがあることを「ふらがある」というが、真面目な語り口の中にもちょっとふらがあるのが山崎さんの魅力であろう。

 そんなこんなで、コメントには注目しており、この人の言うことは結構信用できそうだ、という、いわゆる「いい印象」をもっていたのである。

 そうでなければさすがにこの欲望丸出しどストレートタイトルの本は買わなかっただろうと思う。ニュースピックスの思わぬところが、僕の投資という新しい活動のきっかけになったのだ。スティーブ・ジョブズの言葉を借りるならば、なかなか「コネクティング・ザ・ドッツ」味を感じるできごとである。

 同著で推奨されているのは長期、分散、積立を旨とした王道のインデックス投資というものであり、今でこそ投資系のインフルエンサーやYouTuberらがさかんに喧伝しており、また昨今のコロナ禍を契機とした、米国のFRBが主導して行った、金融緩和による米国のハイパーグロース株を中心とした株価の暴騰により、広く知られるようになった感を感じるのだけど、2017年初頭はまだまだ世間の投資への意識は比べものにならないくらい低い頃ではなかったかと思う。

 仮想通貨ブームも仮想通貨という言葉すら市民権を得ていない、というか一般的な時代ではなかったし。

 いずれにしても僕はこの本を読んで、本に書かれた投資法を忠実に実行し、その後多少のアレンジを加えながらもインデックス投資家として今に至ることになる。

 次はその歴史を(勝手に)振り返ってみたいと思う。

野菜炒めにはまっている

 最近、野菜炒めにはまっている。

 僕は絶賛独身一人暮らしの身なのだけど、ここ半年くらい、急に思い立って自炊生活を続けている。コンビニは高いし、外食するのも高いし、結局節約のためである。

 僕は基本的に朝食はプロテインサプリメント(スーパーフィッシュオイル、スーパーマルチビタミン)、そして味噌汁(SOLIMOの顆粒状(Amazon限定))を食べる。

 会社で食べる昼食は前日に用意した玄米のおむすびだ。これは自分でにぎったもの。だいたい週末に仕込んでおくことが多い。

 それで自炊して夕食を採る、という感じ。

 これが平日の食生活で、一方の休日は朝食は上に同じ、昼食を採らずに夕食が上に同じ。つまり昼食抜きということになる。この食生活をはじめて外食やコンビニが入り込む余地がほとんどなくなった。

 月末にその月に使ったお金を振り返ってみているが、コンビニで約2~3万円も使っており(マネーフォワードME調べ)、これがなくなるということであれば、蓄財も大いにはかどるというものだ。

 ちなみに上に挙げた、SOLIMOの顆粒状の味噌汁は、かなりいい。

 僕はこの選択肢にたどり着くまでそれなりに味噌汁は試していて、例えば、まずはビニール袋にはいった生味噌タイプ(お寿司の出前についてくるようなやつ)、生味噌のチューブタイプのやつ、そしてカップタイプのやつ(コンビニで売っているようなやつ)など様々な遍歴を持っているのだけれども、結論として生味噌タイプは僕のお好みにはなれなかった。

 生味噌タイプは何といっても味噌らしさがあっていいのだが、チューブタイプ、袋タイプいずれにしても味噌が袋やチューブに残って使い切れないのだ。

 これはもったいない。

 そして残った味噌がゴミ出しの日までゴミ箱の中で発酵し続けるのはにおい的にもきついし、衛生的でない。

 僕にとってはメリットをデメリットが大きく上回っている感じだ。

 カップタイプも基本的には生味噌タイプだし、そしてカップ自体がかさばるので保管に適さない。

 一方で顆粒タイプであれば、さらさらと使い切れるし、そのためコスパもよく、ゴミ箱に残らない。

 生味噌ほどではなくても遜色ないくらいに味噌らしさがあるので不満もないし、保管においてかさばるなんてこともない。

 顆粒状の味噌汁はSOLIO以外にもあるのだが、やはり僕は、SOLIOを推していきたい。

 SOLIOの味噌汁は、あおさ、しじみ、とうふという3種類が1セット(1箱)で販売されている。

 ふつうの味噌汁セットといえば、とうふの他、わかめ、ねぎ、油あげなどで構成されることが多いと思うのだが、SOLIOは違う。王道のとうふをおさえた上で、残りをあおさ、しじみという海の香りのするあまりないチョイスで遊びにきているのだ。

 (あくまでわずかながら)味噌汁のくせに非日常を感じさせてくれるし、これらは何より二日酔いの朝などにぴったりだ。というこれは僕特有のメリットだけど、皆さんに広くおすすめしたい。パッケージもなかなかにスタイリッシュである。

 こうしてなんだかんだ、だらだらと自炊を続けているわけで、そしてそのメニューは、もっぱらトマト鍋を始めとする鍋ものである。そしてそのトマト鍋をほぼ毎日食べ続けていたのだけど、やはり飽きなるを感じるもので、このような半年近くも続けたのだからこれはある意味当然の帰結であるかもしれない。どんなに味をマイナーチェンジしても無理である。

 そんなわけで野菜炒めである。鍋から野菜炒めへと、手のかからないものの王道から王道へ、という流れで最近は野菜炒めに行き着いているのだけど、そんな野菜炒めのレシピについてここに開帳いたしたく思う。作り方はいたってふつー。写真はない。

 まずは野菜炒めの食材を紹介しよう。次の通りだ。


ごま油:大さじ1、じゃがいも:1個、たまねぎ:1/2個、鶏もも肉:切り込み3個、ソーセージ:2本半、しめじ:1つかみ、キャベツ:お好みで、しおこしょう:少々、鍋キューブ鶏だし旨塩:1個、輪切り唐辛子:適量、にんにくチューブ:適量


 続いてレシピを紹介する。

 まずフライパンを用意する。僕が使っているのはサーモスのフッ素加工をしてある焦げ付きにくいやつだ。これを使うのは、その昔イキって中華鍋を買った挙げ句、米粒をさんざんに焦げ付かせてしまった反省によるものである。

 中華鍋は食材を手元に完全に用意し、相当に手早く調理をやらないと死亡が確定してしまう。

 フライパンにごま油を垂らし熱したところでにんにくチューブを投入する(明日出勤の場合は控えめに)。薄めのいちょうに切ったじゃがいもを投入、続いて薄切りにしたたまねぎを入れる。薄切りの方向は繊維に対し平行にする、いやどうでもいい(と思う)。なお、調理を通して火加減はあまり気にしなくていい。極端に焦げ付かないこと程度を気にしていればよろしい。

 そして鶏もも肉とソーセージをいれてここで鍋キューブを入れつつ、しおこしょうで味付けをする。一応このメニュの一番のポイントが鍋キューブの存在である。醤油みたいなボヤッとしたありきたりの味ではなく、ややピリッとスパイシーな仕上がりになる。

 たまねぎとジャガイモに十分に火が通りしんなりしたな、と思ったら、そして鶏もも肉も少なくとも表面は十分に焼け色がついているな、と思ったら(この段階でソーセージはほとんど出来上がっている)、しめじとざく切りにしたキャベツ、輪切り唐辛子を入れる。キャベツは火が通るとしんなりして体積半分くらいになってしまうのでかなり多めにいれてもよい。

 それこそ、26cm鍋いっぱいになるくらい入れても、結局こやつは一人で十分食べ切れるくらいのかさに減ってしまうので心配することはない。いざ残っても保存もきくし、遠慮はいらない。

 そのままかきまぜて最後にしおこしょうで味をととのえて最後にひと混ぜしたら完成だ。

 なんともふつーの野菜炒めのようだが、ポイントはごま油、輪切り唐辛子と鍋キューブを入れたことにあると思っている。

 ごま油の香り、唐辛子のピリ辛(辣)、そして鶏だしうま塩の和テイスト。中華にも和にもなりきらない感じがなんとも異国情緒をそそる(嘘)。ただコクがでてビールによく合う味となる。

 また、野菜炒めを作る過程でキャベツからでた水分に鶏だしうま塩味が染み込んだ汁がフライパン底に残るので、これはチャーハンにしてもよい。

 ちなみに僕はチャーハンに使うお米は、硬めに炊いた玄米がベストではないかと思っている。チャーハンはやはりべちゃべちゃよりはパラパラとした仕上がりが醍醐味だと思うが、そんなパラパラチャーハンを、玄米であれば鍋振りのテクニックがなくても比較的かんたんに作れる。

 だってももともとパラパラなんだもの。

 そしてチャーハンという美容と健康に対して悪い食べ物を、玄米という健康食品で悪を中和できている感じもうれしい。

 これからしばらくは野菜炒めをいろいろ試して極めてみる。

銀河鉄道の夜をエアプする。

銀河鉄道の夜』を読んだ。

 宮沢賢治の不朽の名作として名高い本作品。日本人ならば誰でも題名は知っているであろうくらいの本作品。

 ページ数は80ページほど(青空文庫)と短いが、読んでみての率直な感想。

 正直なところ、しっかりと読みこんだ人はおろか、実は読み終えることができた人さえ意外に少ないのではないかと思う。

 宮沢賢治の独特の世界観と、オノマトペの連続になかなかすんなりとついていくのが難しいと感じる。銀河鉄道に乗る、というロマンティックなイメージだけで語っている、そして『銀河鉄道999』と同一に語っているエアプ勢も多いのではないか。

 それとも僕の読解力が低いのだろうか。その可能性は大いにあるのだけど。

 あらすじを述べる。主要な登場人物は3人だ。まずは、主人公の少年ジョバンニ。学校ではいじめられっ子で母親は病気がちであり、ジョバンニが仕事をして支えている。父は北の海に漁に行ったきり帰ってこない。

 続いて、ジョバンニの親友であるカムパネルラ。いじめられっ子のジョバンニを彼だけはからかったりしない。そしてジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃からの友達で、ジョバンニとカムパネルラは幼なじみと言える。

 そして、ザネリ。ザネリはいじめっ子でクラスでも先頭に立って、いつもジョバンニをからかっている。

 物語はケンタウルスのお祭りの日の学校での授業にはじまる。相変わらず貧乏でザネリ達にからかわれているジョバンニとそれを悲しそうに傍観しているカムパネルラ。貧乏なジョバンニは病気のお母さんを助けるために、帰ってこないお父さんの代わりに昼に夜に働いており、お祭りにいく友達もいない。そんなお祭りの夜にふと気づいたら銀河鉄道に乗って、カムパネルラとともに様々な出会いを通して真実に目覚め生きる覚悟を決めるが、そんな矢先、親友であったカムパネルラは川で溺れたザネリを助けるために死んでしまう、

 とまあこんなあらすじである。

 ここからは、気になった部分をピックアップし勝手に解釈を加えてみる。

 ジョバンニが短い時間ながら仕事の合間にケンタウルス祭を見にいくからかわれたときのジョバンニの心の声。

 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことをいうのだろう。走るときはまるでネズミのようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを言うのはザネリがばかなからだ。」

 ジョバンニはザネリのことや苦しい生活のことを考えるには抵抗がある。振り返るのはつらいことそのためザネリはバカだと嘘の答えをだし考えることを放棄し、一応己の心の中で決着をつけた。

 そのまま続けての描写、

 「ジョバンニはせわしくいろんなことを考えながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通っていきました。(略)」

 せわしくいろんなことを考えるとは、心にふと浮かんでくるままの状態で、ころころ変わる、つまりまだこの段階のジョバンニは何も考えていない。

 考えるとはかむかえる 異物を苦しみながら受け入れそれを同化していくことであり、この段階のジョバンニはそれができておらず真実に至ることはできなかった。

 飾られた街の中、まがいものの中を通ることでしか、その場の気持ちを納めることができなかったジョバンニ、飾ることとなにかに抵抗することは同じである。そして飾るのは、他者に対する猜疑心の表れである。相手に自分のことを本気で思っているかどうかを試す行為である。

 また飾るとは逃げることであり、いざという時に逃げてしまうのはジョバンニには後悔が待っているような状態であるといえる。

 次に、「ふくろうの赤い眼がくるっと動いたり。。。」

 ふくろうは古代ギリシャ時代に知恵のシンボルであったとされる。赤い目とは泣いているということである。では何に対してか。真実に生きられない人間ばかりの今の時代をみて嘆いて泣いていると考えてよいだろう。

 それから、ジョバンニは、「われを忘れて、その(黒い)星座の図に見入る。」

 黒い星座早見とは飾りのないもののことであり、ここでようやく真実の世界に入りつつあることを象徴しているといえる。

 牛乳屋さんに牛乳を取りに行ったさいの牛乳屋さんは、「赤い眼の下をこすりながら、ジョバンニを見下ろして言いました。(中略)その人はもう行ってしまいそうでした。」

 赤い眼が再びでてくる。時を刻んできたものの眼が赤い、すなわち泣いており、そのものがもう行ってしまいそう、とは死んでしまいそうということである。

 これは、真実に至れないまま己の若さを過信して過ごしていた年寄りであり、そのなれの果てである。歳をとることに対し、精神的準備ができていない青春の残骸の象徴であるといえよう。

 精神的準備とはやはり時を刻んでも風化しない、時を超えて説得力のあるもの蓄積する必要があるのだとおもう。

 ほんとうに。。。とはジョバンニが主体的な動機をもったときであり、銀河鉄道に乗ったジョバンニが死ななかった理由である。

 ここまででもまだかなりの冒頭だが、いささか飽きてきたのでまとめてみる。

 僕の考えでは、ジョバンニが入っていた真実の世界に、カムパネルラは入れなかったのだと思う。カムパネルラはあくまでおっかさんの視点で生きていた。溺れたザネリを助けるという、みなが期待する「いいこと」のために死んだ。カムパネルラは自分が本気でやりたいことをやれたのだろうか。否、それをやらずに、やれずに死んだ。

 銀河鉄道に乗り込む人々をみると明らかに死んだものたちであり、銀河鉄道の旅は、明確に死出の旅を象徴しているといえる。

 では、生きていたはずのカムパネルラとジョバンニの二人が銀河鉄道に乗れたのはなぜなのか。

 カムパネルラが乗れたのはもうすでに実体が死んでしまったものだから、すなわちザネリを助けて死んだ本物の幽霊だからである。

 そしてジョバンニが乗れたのは、働いて働いてせわしなくせわしなく考えて、こどもらしい生き方をしていない、生きている幽霊のようなものだからであると考える。

 カムパネルラ、ジョバンニ、いずれにしても生きていても死んでいても死んでいるのと変わらない状態であったことが銀河鉄道に乗れた理由であろう。

 ではどうすれば銀河鉄道に乗らずに生きられるのか。結局は人生に対し、主体的な動機をもつことだろうと思う。そしてそのためには自我が必要である。

 まずは何か一つでも夢中になること、そのことで己の限界や人との関係がわかってくる。まずは模倣してでも形から入り、夢中になって生きることである。

 やや退屈な冒頭から、ラストの怒涛の語りかけを読むことでこんなことを考えてみた。

ああ、人生は過失なり-萩原朔太郎を読む-

 最近、私は学生の頃に学んだノートをよく眺めている。

 今日開いた国語講義の受講ノートには、「ああ、人生は過失なり」という一フレーズが、詩人 萩原朔太郎の詩作の中に存在するかのように、書いている。

 萩原朔太郎の詩作を扱った講義でこう習ったのだろう。

 あれから20数年経った今、改めて調べてみるとこれは嘘、というか、その言い方が悪ければ認識の誤りである可能性が高いことが分かった。

 調べるといっても、萩原朔太郎の全詩集をあたったわけではない。朔太郎先生に敬意を表して、本来ならばそのようにすべきなのだろうが、いかんせん人生は有限である。 

 ここでお世話になるのはいわずとしれたGoogle検索だ。

 さて、Google検索窓に「ああ人生は過失なり」と入力してみると、検索最上位には青空文庫のサイトが表示される。そのページでは、萩原朔太郎の絶版となった詩集 氷島(ひょうとう)を読むことができる。この詩集の中に答えがありそうだ。

 ところで、詩を読む、と表記したが、詩とは読むものなのであろうか。味わう?何にしてもなんだかしっくりこないのだけれど。

 そして、青空文庫が非営利で成り立っていることを恥ずかしながら知らなかった。今知った。私たちがこうやって気軽に古い文献にあたれるのも、こういう志ある方がたの尽力のおかげであったのだ。大変に感謝を申し上げたい。

 お金になるわけではないけれど、意義のある活動に取り組めるような人間に、世の中に有用な人間に私もいつかなりたいと心から思う。

www.aozora.gr.jp

 さて、詩集『氷島』には25篇の詩が掲載されている。サイト内で「ああ人生は過失なり」で検索してみるが、ヒットしない、「ああ」と「人生」の間にスペースや読点を入れても同様であった。この詩集に掲載された詩集には、冒頭のフレーズはないようである。

 「人生は過失なり」という印象的なフレーズを、他の詩に使いまわしている可能性も考えにくい。

 ここで、萩原朔太郎の詩作の中に「ああ人生は過失なり」というフレーズはないもの、と一旦判断する。

 しかし、この詩集『氷島』をざっと眺めても「ああ」、そして「人生は過失なり」という2つの単語、フレーズは朔太郎の詩の世界の全ての根本にあるように思える。

 まず、「人生は過失なり」が登場するのは、『新年』という詩である。これは『氷島』に掲載しているので、一部をここに紹介する。

わが感情は飢ゑて叫び わが生活は荒寥たる山野に住めり。いかんぞ暦数の回帰を知らむ 見よ!人生は過失なり。今日の思惟するものを断絶して 百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。

 新年を迎えたけれど、自分は変わらずにひたすら自らの人生への怒りと後悔に打ち震えているという詩だ。多くの人がポジティブなものと捉えている新年の到来を、対比として冒頭に述べることで怒りと後悔の深さをより際立たせていると感じる。

 この詩の中に、まず「人生は過失なり」のフレーズが登場する。

 使われている単語と組み合わせについて見ていこう。

 「過失」とは、「結果が予見できたにも関わらず注意を怠ったことによる失敗」ということになる。

 朔太郎にとって人生は予見可能であったのだろうか。『氷島』の全作品を通してみても、情欲などの人間の業や、他者との関係性における労苦を感じさせるものが多い。こういったものの存在を認識し、対処が必要であることを認識できていたのかもしれないが、朔太郎の身に起こった幼少期の孤立、成年してから見舞われた離婚や家庭崩壊などを思うに、己の思うようにいかない苦悩の連続であったのだろう。そして過失は、そして取り返しがつかむものとの観念に達したものと想像する。

 更に、断定の助動詞である「なり」がつくことで、現代風に述べるのならば「人生は過失だ」となり、彼にとって「過失こそが人生」と定義されることになるが、「ああ」がつくことでこの定義は数学的な定義とはまた異なる趣を与えることとなる。

 続いて「ああ」である。「ああ」とは何か。「ああ」は「あはれ」に変化し、よく知られるものは、江戸時代の国学者 本居宣長が提唱した「もののあはれ」である。

 「もののあはれ」は平安時代の王朝文学上、重要な文学的、美的理念の一つであり、あはれとは、何か具体的に存在するものではなく、具体的な内容に置き換えられるものではない。対象に対するしみじみとした情趣、無常観的な哀愁のこととされる。

 「人生は過失」であると断じるとともに、感嘆詞である「ああ」をつけることで、無常観、対象に対するある意味で第三者的な目線が感じられる。第三者的な目線ということは、対象はすでに己の中で対象を相対化され、切り離されており、切り離されたものに対する情感といえる。

 詩集『氷島』を読むことで、人生は過失であると達観し、その中でも生き続けた朔太郎の人生への無常を読み手も感じるのだ。