あの世に名声はもっていけるか。

あの世に名声はもっていけるのだろうか。

 いつもより寝坊したある夏の終わりの日曜日。カーテンを開けると最近いくぶん穏やかになった日差しが、室内にやわらかに差し込んでくる。

 日曜日はいつも日長一日、FMラジオを聴いて過ごしている。

 日曜日の午前中は特にパーソナリティのキャラクターが比較的穏やかである。日曜日の午前中は確かにこんな雰囲気が合うような気がする。

 もっと若い頃、トーク番組というのは何が面白いのか解らなかったのだが、いつの頃からだろうか、トーク番組というものが心地よく感じられるようになったのは。アラフォーになり、他人の話を聞いたところで心を動かされることも少なくなったけれど、会話から、ラジオの向こう側からも感じられる人々の息遣いに触れていたいと思うくらいには寂しいのだろうか、そうかもしれない。

 これはあるラジオ番組での話。その日はある実業家の男性がゲストで登場し語る回。その人の名前も、何の事業をやっているのかもすっかり忘れてしまったが、多くの金銭を稼いだいわゆる成功者らしい。

 ゲストとして招かれたその人は、番組の主旨に則り、いかに苦労の末成功して、今どんな風に充実した人生を送っているかを語っている。

 功成り名遂げた今もなお、「ザ・成功者」ともいうべき、あちこちを飛び回るよく働き、よく遊ぶエネルギッシュな人生を送っているそうだ。 

 そして、その動機をこう語っていた。

 「生きている間にもっと色んな刺激的な経験をしたいんですよね。そしていつか死んであの世にいったら、あの世で会うであろう人たちに、俺は、生きている間にあんな、こんな刺激的な経験をいっぱいした充実した人生だったよ、と自慢したいんですよ。」だそうだ。

 彼にとっては、他人に讃えられ、承認欲求を満たすことが行動の原動力になっているようだ。また、あるかどうか分からない、死後の世界の実在を前提とした、不思議なモチベーションではある。

 死後の世界があるのかどうかは、ここで語るべきことではないので置いておく。しかし、あの世にいってまで生前に人のことを自慢したいのだろうか。

 そもそも人に自慢しようという心持ちの奥にあるのは、自分の以外の他人を脇役にして、他人を背景にして、自分が前にでたいという自己顕示欲に辟易してしまうのだけれど、成功者というのはこういう、他人のことなんかどうでもよく自分が前に出ることをナチュラルに一番に考えられる人たちなのだろう。こういう考えに賛同はしないまでも、こういった考えをもって他人から勝つことにこだわり成し遂げたということは感心する部分はある。

 一方で、私はどうだろか。成功した実業家などではない会社員ではあるけれど、やっぱり他人を背景にすることを是とする生き方はダサいと思う。自分の本当の満足とかを他人にゆだねているという時点で。もっと自分の中の充実ということに向き合うべきだし、そして背景にされる他者に対する想像力をもつべきだと思う。

 「俺はこんなにすごかった、すごいんだ。」といって称賛を得ようと躍起になるより、「君はほんとにすごいよね。」と素直にいえるほうが素晴らしいと思うし、そんな自分であろうと思って生きている。

 他人に称賛してもらうのは悪い気持ちではないし、時に快感ではあるけれど、みんな、誰かの背景になるよりも自分を認めてほしいと思っているはずなのだ。他者を無理やり自分の背景にしてしまう行為にうつつを抜かすようになってしまうのが、社会的な成功がもたらす結果ならば、そんなものは欲しくないと思ってしまう。

 私は成功者などと呼べるものではないけれど、そんな心持ちで生きていられることは幸福であるかもと思う。でも、こんなマインドではなかなか人の上に立つのは難しいかもしれない。